【いつかやる】隠れた女性偉人伝

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「いつかやる」女性偉人伝

両手両足がなくても力強く生きた「中村久子」

両手両足を失った【中村久子の生涯】辛い時こそ知って欲しい超偉人

 

この動画でわかること

  • 障害者に対する厳しい差別
  • 子連れの女性が生きていくために選択する再婚
  • 自分でできることを精一杯やることで道を拓く
  • 「生きることに感謝する」という生き方

3歳で両手両足を失う

明治39年に岐阜県大野郡高山町(現・高山市)に生まれる

結婚11年目にして初めての子供

久子が2歳の時、左足が紫色に変色していた。
病院で診断してもらうと突発性脱疽(バージャー病)であった。

血管を血液が流れにくくなる病気

医者から両手両足を切断しないと死んでしまうと告げられる

この時代の医学では治せるかどうかは微妙な状況であり、
手術しても死んでしまう可能性もあった。

手術に踏み切れず、
父親は神仏にすがり続ける。

しかしある日、久子の左腕が壊死してポトっと落ちてしまう。
これを見た両親は手術を決断する。

3歳のときに久子の両手両足を切断する手術をした。

父親の死

人形が大好きだった久子は人形に
「両手両足があっていいね」という言葉をかけていた。

父親は「俺が乞食になってもお前だけは守るからな」
と言っていたが、7歳の時に父親は急死する。

母親の決断

生活が苦しくなって、
母親は久子と心中を図ったが思いとどまった。

母親はある決断をする。
「この子が一人になっても、
立派に生きれるような人間にしよう」

久子への教育

母親は生活のために別の男性と再婚する。

母親は久子に厳しい教育をする。
着物の硬く結ばれた止め糸を
「一人で解いてみろ」と言われる。

考える力と両手両足がなくても
人並みと同じくらいに動けるように教育した。

久子はハサミを口にくわえて物を切り
口を使って針に糸を通して、
人形の服を裁縫できるようになる。

口の中で麻の糸を結ぶことが
できるようになる。

久子は自分でもできることに喜びを感じた。

久子への軽蔑

久子の作った人形を友達に渡したら
友達の母親から唾液がついて汚いといって捨ててしまう。

再婚した父親は障害者の久子を見せたくないので
2階に閉じ込めてしまう。

見世物小屋で芸人に

久子の治療費で借金もかさみ
父親の友人から見世物小屋への誘いが来るようになる。

久子は19歳の時に見世物小屋の芸人として生きることを決意する。

そのときつけれられた芸名が「だるま娘」。

麻の紐を結んだり、人形の着物を作ったりするなどを披露する。

今までは差別されて外に出れなかったが
化粧してもらい、
芝居や映画にも連れて行ってもらえた。

このときの習字の先生に言われたのが
「泥沼の蓮になれ」
どんなに辛い環境でもそこに毒されてはいけない。
辛い環境を知ってこそ、本当の人間になる
という意味。

差別される日々

経営不振で別の見世物小屋に移る

「お前のやっていることは芸じゃない
もっとすごい物を見せろ」
と目の肥えた客に言われる。

読書が好きだった久子は
他の芸人から
「なに気取ってんだよ。
俺らのこと、馬鹿にしてんのか?」
と言われる。

久子は必死に耐えた。
どんな状況であれ
自分を受け入れ、仕事を与えてくれるのは
見世物小屋しかなかった。

母親の死、結婚・出産

1920年、母親が死んだという連絡を受ける。

厳しい教育で母親を恨んだこともあった。
父親が死んでからは自分を守ってくれて
借金を返して自立を教えてくれた。
その母の愛をやっと感じることができた。

母の死を乗り越えて大きく変わった。
同じ見世物小屋の男性と結婚し、
子供も産んで、人並みの生活を得ることができた。

雑誌「婦女会」に掲載

自分の存在を忌み嫌っていた彼女は
必死に生きているのを伝えるため
自分の半生を執筆する。
当時流行っていた「婦女会」という雑誌に
掲載される。

多くの感動を呼び、久子に義足をプレゼントされる。
久子はこの義足をはめて、
他の人が当たり前に見える景色を初めて体験した。

夫の死

結婚から3年後に超結核で夫が亡くなる。

子供もいて、女ひとりでは生きられない時代、
再婚を決意する。

再婚をしたが、2年後にその夫も亡くなる。

子供も二人いる、生活も苦しい
本当にこの体で生きていけるのか…
そのことをずっと考えていた。

座古愛子との出会い

座古愛子は17歳でリウマチにかかって
首から下が動かなくなる。

必死で生きて女学校の購買部で働いていた。

寝ながら接客をしていた。

その話を聞いた久子は彼女に会いに行った。

どんな気持ちで生きているのか?
その答えを知りたかった。

座古愛子はキリスト教徒だった。
愛子は毎日生きていることに感謝していた。

自分より辛い状況に置かれても
毎日生きることに感謝している

自分は自分の存在を恨み
生きることに絶望し、
親すらも憎んでいた。

久子は大きな衝撃を受けた。

そこから久子は生きることに感謝するようになる。

子供たちと一緒にいる、
ご飯を食べている、
全てに感謝して
可能な限り全ての生活を
自分でやるようになった。

障害者がもらえる保証を
恩恵を受けたら甘えが生じることを理由に
全て断っていた。

見世物小屋へ戻る

もう一回、再婚して
見世物小屋から離れていたが
また戻ってきた。

「業のある間は何十年でも
見世物芸人でいいではないか。
やめろと仏様がおっしゃった時に
辞めさせて貰えばよい。
来なかったら業の尽きるまで芸人でいよう」
という決意をする。

「生きる」というのを真剣に考えて
感謝しようと決めた。

ヘレンケラーと対面

昭和12年4月17日、
日比谷公会堂でヘレンケラーと対面する。

久子はヘレンケラーに日本人形を送った。

その人形の着物は久子が口で縫った着物だった。

ヘレンケラーは久子の体を触って
「私より不幸な人、
私より偉大な人」
と言った。

講演活動を始める

昭和17年47歳になった久子は
芸人を引退して、多くの場所で講演することを決めた。

「生きる意味」「自らの道」
手足があっても
中々それらは見いだせない。
手足がない自分でもそれを
手にし、歩むことができたから
多くの人にそのヒントになって欲しい。

そういう意味で講演会をスタートした。

婦人会、寺院、学校、刑務所など
多くの場所で講演し、
夫や娘の背中におんぶされ、
全国を歩いて講演して
死の直前まで続けた。

54歳の時、
「高山身障者福祉教会」の
初代会長に就任。

昭和36年には障害者の代表として
天皇陛下にも拝謁した。

晩年

飛騨国分寺内では母親への感謝を
形にしたいということで
悲母観音菩薩像を作った。
菩薩像の腕には両手両足がない子供を抱えている。

生きていること、生活できていること
自分の存在。
色んな人に感謝してきた彼女は
71歳で息を引き取る。

「今、思えば一番良き師、良き友は
両手、両足のないこの体であった」

のちに久子は日本のヘレンケラーと呼ばれる。

二千人の孤児を救った「沢田美喜」

戦後のハーフ大救済!?日本の聖母マリア沢田美喜を解説!

この動画でわかること

  • 人種差別の現実
  • 混血児の悲惨な現実
  • 友人や孤児院の出会いが人生を大きく変える
  • 混血児を救う覚悟

日本は戦争に負け、
アメリカの占領下に置かれる。

そのとき「混血児」という社会問題が起きる。
体を売った日本人女性がアメリカ人の子供を身篭るが
出産後すぐに捨てられてしまっていた。

その混血児たちを救ったのが沢田美喜。

三菱財閥のお嬢様として生まれる

三菱創業者岩崎弥太郎の孫として生まれる。

津田梅子に英語と平等の精神を教わる。
このときから外国に興味をもつ。

百日咳にかかって別荘で静養していた。
使用人が読んでいた本にあった一説に
衝撃を受ける。
「汝の敵を愛せよ」
キリスト教に興味を抱く。

毎回学校に行くたびに私物と聖書を交換してもらっていた。
岩崎家は真言宗であったため
祖母に聖書が見つかると燃やされていた。

20歳に結婚

華族が嫌いだったため
華族とのお見合いで
シュークリームを口に含んで
相手に飛ばしたり
お見合い中に寝たふりをしたりして
結婚に抵抗していた。

外国に行けて、クリスチャンだった
20歳に外交官沢田廉三と結婚

外国生活を8年続ける。

差別と孤児院に出会う

フランスのダンサーだった
ジョセフィン・ベーカーに出会う。
黒いビーナスと呼ばれ有名なダンサーだった。

ニューヨークに行った時に
ジョセフィン・ベーカーに対する
黒人差別がひどかった。

そのときのジョセフィン・ベーカーの言葉に胸を打たれる。
「貴方達は白い皮膚の下に黒い心がある。
私の黒い皮膚の下には真っ白い心がある。」

美喜は差別の恐ろしさと悲しみを知ることになった。

ドクター・バーナードス・ホームという孤児院を訪れた。
今までの日本の孤児院はボロボロだった。
小中高と学校もあり教会もあり、
しっかりとした教育が行われていた。
いつかこういう施設を作りたいということで
ボランティアにたくさん行っていた。

この出会いがその後の彼女の人生に大きな影響を及ぼす。

混血児を救うことを決意

8年の海外生活を終え、
大東亜戦争、太平洋戦争が勃発する。

美喜は鳥取に疎開する。

三人の息子はみな戦争に行き
三男は戦死してしまう。

終戦を迎え、その翌年、
戦争から帰ってくる息子に会いに行くために
夜行列車に乗っていた。

椅子の上の網棚から風呂敷が落ちてきた。
その風呂敷の中をみたら
何重にも新聞紙にくるまった
混血児の死体(ミイラ)が入っていた。

混血児はとんでもない差別を受けていた。
日本人から敵国の子供だということで
悪魔と呼ばれ捨てられ、
アメリカとしても占領体制下に
多くの日本人を孕ませていることが
本国にバレたらヤバいため
隠蔽工作をしたり捨てさせたりしていた。

日本の孤児院も引き取ってくれなかった。

日米両国から嫌われてしまったのが混血児だった。

その時、美喜は神の啓示を受ける
「もしお前が一時でも
この子の母とされたのならば
なぜ日本中のこうした子供達のために
その母になってやれないのか」

美喜は
混血児を救おう
混血児たちの母になろう
ドクター・バーナードス・ホームのような
施設を日本に作ろう
と決意する。

混血児への差別と戦う

大磯にある別荘を孤児院にしようとしたが
GHQに没収されていた。

GHQから6ヶ月に400万円用意すれば返すと
言われる。

美喜はなんとか400万円をかき集めて
別荘を返してもらい、
孤児院エリザベス・サンダース・ホームを作る。

ゴミ箱に捨てられた混血児
畑に捨てられた混血児
多くの混血児を引き取った

孤児院の庭に混血児を投げ込むものもいた。

必死に子供達を救い続けた。

日本人からは敵国の子供を育てていると言われる。
「パンパン館」と陰口を言われ
石を投げられ、暴言を吐かれ
孤児院の子供達はいじめの対象にもされた。

GHQからは混血児を集めて
反米感情を煽っていると言われた。

美喜は子供達を守り
GHQの本部の乗り込み
GHQ公衆衛生福祉局長
クロフォード・サムスと
勝負した。

本国にもバレて
「GIベイビー」と呼ばれ
非難されていた。

この子達はここしかないんです。
あなたは日本という国も奪って
さらに自分の血のつながりのある子供達も捨てるのか?
命を奪うのか?
今すぐはっきり答えてください。
と詰め寄り、孤児院を守った。

美喜は必死に我慢し耐えた。
その姿からポール・ラッシュ、
グレース・ケリー、ジョセフィン・ベーカーなど
たくさんの人々から支援を受けることができた。

多くの混血児たちを救った

混血児達のために聖ステパノ学園を設立、
聖ステパノ農場という就職先も作る。

五百人以上の養子縁組を成立させた。

マヨルカ島で78歳の時に息を引き取った。

彼女は二千人以上の混血児を救ったと言われる。

美喜は次の言葉を残している。
「人生は自分の手で
どんな色にでも
塗り替えられるものである。」

復讐に生きたプーラン・デヴィ

悲劇の復讐者!インドを震撼させた盗賊女王!プーラン・デヴィの生き様を解説!

この動画でわかること

  • カースト制度の壮絶な差別とその被害者
  • 復習心から来る大きな情動
  • 境遇と戦った女性

幼少期

1963年、カースト最下級のシュードラという階級の家庭に生まれる

牛の糞を丸める仕事をしていた。
(暖房の燃料になる)

土地の相続問題で揉めていた。

叔父が祖父の持っていた土地を独り占めしていた

実家は土地を返してもらうために裁判を起こしている

叔父は権力者に金をばらまき、
家族に不利益をもたらしていた。

プーランはなぜいじめられているのか?
なぜ村の人たちは助けてくれないのか?
疑問に思うようになる。

プーランは11歳の時に
30歳過ぎの男性と結婚させられる

ダヘーズという風習がある。
これは花嫁が花婿にお金を渡す風習。
花婿家族の要求にあった金額を支払う。
(女性の年齢が上がるにつれて
需要が○○なため金額が高くなってしまう)

プーランは夫に虐待、暴力、強姦される

最後は犬のように捨てられてしまう

村に戻れば
「旦那に捨てられた女」ということで
村人たちに迫害される

カースト制度の風習

インドにはマヌ法典がある

マヌとはインドの神様

その法典には
「女は堕落するから心を許すな」
「女は幼女のうちは父に尽くし
若者になったら旦那に尽くし
旦那が死んだら息子に尽くせ」
つまり女は独立してはならない
厳しい掟が書かれている。

男尊女卑の元は
マヌ法典から来ていると言われている

プーランは「旦那に尽くすことが
できなかった愚かな女」
という扱いを受けてしまった

マヌ法典を守らなかったので
「報復を受けて当然」
という扱いを受けてしまう

結婚相手は
ジョーティッシュという
占いで決められる。

カーストに反抗する

プーランはグレてしまう

いじめてきた相手の家を壊す
叔父に土地を返せと迫る
自分より上のカーストがいじめたら言い返したりした

村長の息子がプーランを強姦する。

叔父が強盗に遭ったときに
プーランのせいにされ
警察の拷問をうける

最後は村八分にされる

プーランは
「絶対に復讐してやる」
と決意する

村長、叔父、村人の謀略により
盗賊にさらわれてしまう

しかしこれがプーランにとって
転機となる。

プーランの復讐劇

盗賊のお頭にヴィクラムという人物がいた

同じシュードラの階級であったヴィクラムは
プーランの話を聞いて同情した。

ヴィルラムはプーランを愛人(二番目の妻)にする

プーランの復讐劇が始まる。

虐待した旦那の家に行って報復
股間をライフルで撃ち抜く

自分の村を襲い、
自分をイジメていた村人たちを報復

叔父の親戚を射殺。
叔父から土地を奪還する。

腐敗した警察を何度も脅して
国にも宣戦布告をする。

弱い人を助ける

プーランは自分のようにいじめられている
お金を虐げられている
女性というだけで差別を受けている人を救う

弱い人から金をとっている家を襲い
そのお金を貧しい人に配っていた

女性をいじめた男性を集めて
片っ端から股間を撃ち抜く

プーランは盗賊女王と呼ばれる

50人ぐらいを率いる盗賊のボスになる

「人が犯罪と呼ぶもの
それは私にとっては正義だった」

ビーマイ村虐殺事件

シュリ・ラム兄弟が警察も取り込んで
ヴィクラムを裏切って暗殺する

プーランも裏切った仲間の村につれて行かれて
村人たちに強姦される。

そこで報復に入ったのが
ビーマイ村虐殺事件。

シュリ・ラムのカーストはクシャトリア(上位カースト)。
シュリ・ラムの村も上位カーストたちの村だった。

低カーストが高カーストを
大量に殺害するのは過去に例がなかった。

インド国中が騒ぎになる。

首相から即刻処罰しろという命令が下った。

刑務所へ服役

2年間逃亡の末、司法取引に入る。

最初は拒否していたが
最終的には投降することにした。

1983年、1万人の観衆の前で
投降式を行った。

マハトマ・ガンジー
女神デュルガーの肖像画を置いて
投降した。

国ではなく、この二人に投降した
という決意の表れだった。

刑務所の中でこのような発言をしている。
「もしお金があるなら
この刑務所と同じ大きさのホールの家が欲しい。
でもそれは夢とわかっている。
どんな女の人でも私と同じ体験をすれば
普通の生活を考えることは
できなくなるはずです。
草を刈り、ライフルを使うことの他に
私が何を知ってるというのですか?」

プーランを応援を団体もできた。

社会党リーダーのムラヤム・シン・ヤダブ主席大臣は
「彼女を救え」と動き出す

1994年2月に、11年という短い刑期で釈放される。

政治の世界へ

釈放後に社会党に誘われる。

反カースト、反ヒンドゥー、女性権利向上のため
ライフルを捨て、政界に飛び込む

プーランをモデルにした「バンデッド・クイーン」
という映画が製作された。

プーランの行動、人生が多くの人に知れ渡る。

イギリス労働党ミルドレッド・ゴードンが
プーランをノーベル平和賞候補に推薦した。

1996年、国会議員になる。

プーランの行動で
上位カーストが下位カーストを
少し尊重するようになる。

2001年、37歳という若さで暗殺されてしまう。

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