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任天堂ヒット商品の歴史
ファミコン開発 ファミコンは他社と何が違っていたのか?
この動画でわかること
- ファミコンが大成功した理由
- 他社とどこで差別化を図るか?
- レーダースコープの失敗から学んだファミコン開発への教訓
この動画の目次
ファミコン誕生ギャラクシアンの衝撃
- ファミコンが成功した理由とは?
- 各社から家庭用ゲーム機発売
- カセットビジョン、SG-1000、MSXの方が注目されていた
- 任天堂のファミコンが圧倒的な販売数を記録
- ファミコン、SG-1000、MSXを比較
- 価格
- CPU
- グラフィックチップ
- 任天堂はファミコン専用にグラフィックチップを開発
- ファミコン開発に影響を与えたアーケードゲームの影響
- インベーダーゲーム
- CPUで開発されたゲーム。
専用LSIでは時代遅れとなった。
任天堂は家庭用ゲーム機から撤退を決意
- CPUで開発されたゲーム。
- ギャラクシアン
- なめらかな動き。スプライト方式
- インベーダーはフルグラフィックス方式
ハードウェアの制約がある - スプライト技術はゲーム史に残る大革命
パックマン、ゼビウスへと発展。 - 任天堂はスプライト方式のゲーム開発へ
- インベーダーゲーム
- 最新の技術を駆使したレーダースコープの失敗
- 最新技術により価格が高騰してしまった
- 「最新技術を駆使してもヒットするとは限らない」
という教訓を得る
- 1982年6月、ファミコン開発に着手
- 開発コード名は「ガメコム」
- スプライト方式を主軸とした2万円以下のゲーム機を目指す
- 1983年、ファミコンを発売
- 国内で2000万台を出荷。
- 大ヒット商品となる
- レーダースコープはファミコン開発に生きている
2つの教訓を得た- スプライト技術を学ぶことができた
- 他社よりも優れたグラフィックチップを開発できた
- 最先端技術を使えば面白いゲームが作れるとは限らない
- スプライト技術を学ぶことができた
感想
ファミコンがなぜ売れたのか。
これを任天堂の内部の方から聞くことができる
貴重な動画でした。
素人には一見関係がなさそうな
技術も細部の表現で大きくその結果が変わってくるのですね。
また最新技術、スペック競争に走らないという教訓も
1980年代に経験していたのも驚きでしたね。
のちにプレステに天下を取られても、
落ち着いてトップを取り返すことができたのは
過去のこういう経験が大きいのではないでしょうか。
ファミコンブームに至るまでの「トラブル続きの黎明期」
この動画でわかること
- ファミコン発売直後はトラブルで大混乱
- 品質テストの過酷さと、想定を遥かに越える遊び方
- ファミコンの開発から発売、そしてブームに至るまでの長い長い期間
この動画の目次
トラブル続きの黎明期
- ファミコンも発売当初はトラブル続きと回収騒ぎで混乱していた
- 1983年7月15日、ファミコン発売
- 出足が悪く、7000円まで値下げされることもあった
- コントローラー四角ボタンめり込み事件
- ファミコンの品質テスト
- コネクタ挿抜テストは手作業。5000回挿抜
- 子供は予想を遥かに上回る遊び方
- プラスティックの丸ボタンに変更
- コントローラー引きちぎり事件
- ファミコンはコネクタ式ではない
- 取り替えができず、玩具屋さんに泣きつく子が殺到
- コスト削減のため、やむを得ず直付け式に
- ベースボール消える魔球事件
- ベースボールで遊んでいるとボールや白線が消える
- 原因を調査すると、グラフィックチップの温度の上昇であった
- グラフィックチップ改修のために工場の停止、ファミコンの回収
- クリスマス商戦の目前に、社員総出でファミコンの回収に走り回る
- 目処が着くまでには年を越してしまった
- 1983年の出荷台数は約45万台
- ファミコンブームへ
- 1月末には子供たちが玩具屋に殺到
- ファミコンが品切れ
- ファミコンブーム到来
- 他社のゲームメーカから続々、参入
- クリスマスには出荷が追いつかなかった
- 1984年の累計販売台数は400万台を突破
- 1985年にスーパーマリオが発売
国内で680万本、世界で4000万本、発売 - 1985年には累計販売台数が800万台を越える
- その後、ファミコンは国内で2000万台、世界で6000万台発売される
感想
私のファミコンはブームが来る前に買ったので
四角ゴムボタンでした。
構造上、どうしてもゴムの部分が引っかかって
ボタンが戻らないということがよくありました。
ちょっとゴリゴリやって戻していました。
うちの場合は、
Ⅱコンのゴムボタンのゴムが取れてしまい
ボタンが押せなくなってしまいました。
翌日にジャスコに行って交換用の
コントローラーを買った記憶があります。
コネクタ式ではなかったので
親にやってもらいました。
そんな思い出があります。
品質テストをいくらやっても
子供はそれを上回る遊び方をするのですね。
ゲームボーイの試作品を山内社長に見せた時に
床に叩きつけて丈夫さをチェックしたというのも
納得のいく話です。
横井さんの名作「ゲーム・ウォッチ」誕生秘話
この動画でわかること
- 任天堂のゲーム企画と技術の役割分担
- 横井さんのアイデアを考えるコツ
- 横井軍平さんの功績
- ファミコン、ゲームボーイ、ニンテンドーDSに継承される
- 十字キーなど使いやすくてコストを抑える工夫
この動画の目次
- 横井軍平さん任天堂入社
- ゲームウォッチ生みの親
- 同志社大学電気工学科卒業したが就職先が見つからず
- たまたま見つけた任天堂の電気工学の人材募集
- 自宅から通える距離だったので応募、そして採用
- 横井さんと山内社長との出会い
- 当時の任天堂はトランプや花札を作っている小さな会社だった
- 配属先は工務課。トランプや花札を作る機械のメンテナンスをする
- 機械のメンテナンスはとても退屈な仕事だった
- 工場にある工作機械を使って、
退屈しのぎにいろんなおもちゃを作って遊んでいた - おもちゃを作っているところを山内社長に見られる
- 数日後、社長室に呼ばれる
- 山内社長からは「それを商品化しろ」
「今日からおもちゃの開発をする担当だ」 - 横井さん、任天堂にとって大きな転機となる
- 開発課が新設
- のちに開発部となる
- ゲーム・ウォッチ、ファミコン、ゲームボーイ、スーパーファミコンなど
数々のヒット商品を生み出す - 横井さん考案のウルトラハンドは140万個を販売する大ヒット商品となる
- その後、ウルトラマシン、光線銃など次々とヒット商品を開発
- 光線銃の取引先担当が当時シャープの社員だった上村さん
- 上村さんはのちに任天堂に入社してファミコンやスーパーファミコンを開発する
- この頃に横井さんのパートナーとなる岡田さんが入社する
- 横井さんがゲームを考案、岡田さんがその技術を担当する
という役割分担が確立する - この役割分担は宮本茂さんたちに受け継がれる
- 光線銃以降にヒット商品が生み出せない状態だった
- ゲームウォッチを思いつくきっかけ
- 出張の帰りの新幹線であるアイデアを思いつく
- 新幹線の移動中に暇つぶしになるものがないかなと考える
- 近くにいたサラリーマンが電卓を使って遊んでいる様子が目に入る
- 時間が空いた時に、気軽に遊べるポケットサイズのゲーム機の構想が浮かぶ
- この時、液晶を使ったゲームというところまでは考えてはいなかった
- 山内社長の決断
- 社長の専属運転手が風邪で休んでいたので
代理の運転手を探してた - 社長の送迎車が左ハンドルだったので、
それに慣れている横井さんが指名された - 横井さんが山内社長を送迎することになった
- 送迎中の車内で、山内社長に
小さな電卓のようなゲーム機が作れないかな
と考えたエピソードを話した - 山内社長は聞き流すような態度だった
- 山内社長はその日の会合で液晶最大手のシャープに
電卓を使ったゲーム機の共同開発を打診していた - 当時は電卓が供給過多の状態で価格が下落。
シャープは液晶の新しい市場を探していた - その後、シャープと任天堂は携帯ゲーム機の共同開発の契約を結ぶ
- 社長の専属運転手が風邪で休んでいたので
- ゲーム・ウォッチの開発
- 横井さんと岡田さんはゲーム・ウォッチの企画に取り掛かった
- ハードの開発ではなく、どうやったら面白いゲームが作れるかを先に考えた
- 横井さんの考えは
面白いゲームを考え抜いて、
それからどういう技術だったら実現できるのかを考える - この考え方は任天堂のゲーム作りの基本思想になる
- シャープとの打ち合わせ
- ボールゲームについて打ち合わせ
- シャープ側が技術的に難色を示したが
岡田さんは辛抱強く聞いていった - できない理由がわかれば、できない部分を改善することで
解決につながるのではと考えた - ゲーム企画と技術の溝を少しずつ埋めながら、
任天堂とシャープの共同開発は進められた
- 1980年、ゲーム・ウォッチ発売
- 最初にボール、その後、フラッグマン、
バーミン、ファイア、ジャッジと発売 - 第一弾のシルバーシリーズは約60万台の大ヒット商品になる
- 1981年にゴールドシリーズを発売
- 他社メーカーも液晶ゲームを発売する。
- ワイドスクリーンシリーズを発売
- 最初にボール、その後、フラッグマン、
- 十字キーの誕生
- ドンキーコングをゲームウォッチで発売したい
- ジョイスティックをコンパクトにしてコストを抑えるか
- そこで平らな十字キーを考案する
- 折り畳み式のマルチスクリーンを開発
のちのニンテンドーDSに受け継がれる - 1982年にゲームウォッチからドンキーコングが発売、大ベストセラーとなる
- ゲーム・ウォッチが残したもの
- ゲーム・ウォッチは全世界で4800万台を出荷
- 1983年にファミコン発売によってブームは終息する
- 1985年2月に発売されたブラックジャックを最後に日本での発売は終了
- ゲームボーイの開発
- 横井さんと岡田さんはゲーム・ウォッチの後継機とも言える
ゲームボーイの開発をする - ゲームボーイからポケットモンスター赤・緑が発売され大ブームに
- 横井さんと岡田さんはゲーム・ウォッチの後継機とも言える
- 横井さん、任天堂を退職
- 横井さんは任天堂を退職し、株式会社コトを設立
- 独立から1年後の1997年10月4日、事故に巻き込まれ
56歳でご逝去される - 息子さんからアイデアを思いつくコツを質問された時に
「お前、女の子にモテたいだろ、
それがアイデアを考えるコツだよ」と答えた - 人の気持ちを引きたい。その気持ちを商品にぶつけることが
アイデアを生み出す原動力であり、
売れる商品に結びついていく - たくさんの人間が喜んでくれるものを作る、
この思いが、アイデアを生み出し、売れる商品の根本
感想
学ぶべき点がたくさんあって
数回見ただけでは吸収しきれなかった。
ゲームボーイやニンテンドーDSの源泉が
ゲームウォッチにあったと言えるのが
よくわかる動画でした。
面白いゲームありきで
開発していくというのは
今の時代でも重要なところで
順序が逆になってしまっている現場は
今もあるように思う。
半導体高騰の煽り ディスクシステム誕生秘話
この動画でわかること
- 半導体価格の高騰によるゲームソフト価格の上昇
- ROMカードリッジの製造、在庫などのリスク
- 浮き沈みの激しいおもちゃ業界
- ハドソンからも魅力的な提案
この動画の目次
- 開発した背景
- ファミコンブームの頃に任天堂は不安を抱えていた
- 半導体価格の高騰によりゲームソフトの価格が上がっていった
- 任天堂は半導体高騰と海外輸出の落ち込みで減益となる
- パソコン、ワープロ需要拡大で半導体の需要が高かった
- 任天堂はゲームソフトの値上がりでゲームの売り上げが落ちることを懸念
- 大ヒット商品のゲームウォッチでさえピークは2年で終わった
- ゲーム機離れにつながる前に手を打ちたい
- 任天堂は低価格にゲームソフトを供給できる仕組みを模索し始める
- おもちゃ業界の浮き沈みの怖さを何度も体験していたからこそ
この危機感を敏感に感じていた
- 任天堂へのシステム提案
- ROMカートリッジの課題を解決する提案
- ROMカートリッジのリスク
- ROMカートリッジの価格上昇
- いくつもの業者を通すことでのマージン上乗せ
- ROMカセット在庫を抱えるリスク
- 販売するための初期費用
- ゲームの完成から販売まで2ヶ月かかる
- ハドソンと三菱樹脂が共同開発したBeeカード
- 書き換えもできるメモリカード
- 書き換えできる機械も開発中
- システム名は「ハニカムライン」
- メモリカードと書き換えできる機械の導入を任天堂に提案
- ハニカムラインをおもちゃ屋さんに設置し、
そこでBeeカードを購入し、
店員さんがゲームソフトの書き込みをする - ゲームユーザーは簡単に低価格でゲームを手に入れられる
- ハニカムラインにゲームをインストールすることで
製造費用、在庫のリスクを抱えなくて済む
感想
大人になった今なら
ROMカートリッジで製造して
販売するリスクはよくわかります。
ですが、この当時はそんな事情は
全く知らずのんきに遊んでいました。
当時小学生だったので、知り得ない事情でした。
ずっと変わらず安定してゲームが供給され続けていることに
何の疑問も感じていなかったですが、
業界の方達の心配や苦労は尽きなかったんだなと
大人になった今なら大変さがよくわかります。
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